東京藝大の平熱 美術学部

美術学部音楽学部と違うこととしては、まずそれぞれの科がやっていることが違い過ぎて、美術学部とはこのような感じと軽くまとめることができないところです。学生の雰囲気は大まかに言って音楽学部はお坊ちゃまお嬢様、美術学部は少し治安の悪い感じですが、美術学部でも美術史を専門にする芸術学専攻ですと、本物のお嬢様もいたりします。見るからにアブナイ人からおっとりした人まで様々いて、その点ではとても高度な多様性が保たれていると言えます。ちなみに音楽学部と美術学部は学園祭実行委員会にでも入らない限り、ほとんど交流する機会はありません。教職の体育が交流の場になるとは聞きましたがそれくらいです。
(どうやらこの本、コミックでパート2もでたようですね)

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

  • 作者:二宮 敦人
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
最後の秘境 東京藝大 2: 天才たちのカオスな日常 (BUNCH COMICS)
 

 とはいいつつも本当に個性なるものがあるのかは別問題です。私から見れば藝大生の発想の根底は大体似通っています。もちろん他の大学の学生とは全く違いますが、藝大生とは想像以上に均一性の高い組織なのです。理由は入学までの過程を見れば察しがつくと思われます。
まず藝大の美術学部の実技系に入るという時点で、一般的な就職を考えている人は圧倒的少数派だということはご存じの通りだと思います。稼ぎゼロの社会人になる可能性が相当高いのが特徴なのですが、そのような環境に息子や娘を行かせることができる家庭というのは、経済的余裕があって、かつアートへの関心が並み以上にある家庭に限られてきます。出身地や年齢のばらつきはあるものの、藝大生の養育環境は少なからず似ています。


また入学前には数年間、都心にある美術系予備校に通うことになりますが、そこで致命的なことが起こってしまいます。入試のためのデッサンや芸術論を仕込まれるので、学生の元々持っていた個性が予備校色に染まってしまう場合があるのです。近年油画科や日本画科の現役合格の割合がかつてより上がってきていますが、今の藝大の教授たちには予備校色に染まっていない学生を採用したいという傾向があることは間違いないでしょう。純粋な作家性が命のはずなのですが、それが入試の際にウケがよくなるように修正がはいってしまうのは残念なことです。未だに先端芸術表現科以外にはデッサン試験がありますが、もうヨーロッパやアメリカの美大入試には存在しないので、改革が必要なのではと思っています。

少し逸れましたが、入学する前に体験する環境が多かれ少なかれ皆似通っているので、芸術的な嗜好は人さまざまですが、根本的な価値観はかなり似ていると思います。これは観察しないと分からない微細な問題ですが、稀に分かりやすく顕在化します。毎年二月頃に行われる「卒展」です。かなり内外からの注目を浴びる行事なのでご存じの方も多いかと思いますが、あの展示を初めて見た時はなんて藝大生は個性豊かな人たちなのだろう!と必ず驚くはずです。しかし三回や四回、毎年欠かさず見ていると毎年毎年同じような作品や、同じモティーフ、同じアプローチが散見されることに気が付きます。学生ゆえの未熟さがあるのは仕方ないにせよ、大体のものに既視感を感じ始めてしまうのです。それは藝大生は多様に見えて実はバックボーンが大体同じという仮定を支える重要な要素です。ぜひ「卒展」にいらしてください。

教授も教育者というよりは現役のアーティストだったりするので、授業の体をなしていないケースが多いです。デザインや建築、芸術学など学識の比重が重い科は比較的きちんとしたカリキュラムが組まれていますが、絵画科や彫刻科などファインアート系はかなり怪しいです。講義形式の授業でないという楽しみや価値があるのでそれはそれで素晴らしいのですが、学生と教授という立場が曖昧なのです。ずば抜けた鬼才や教授に気に入られた人は優先的に教えられたり、プライベートで対話し遊んだり、自分の製作に一部関わらせたりと、物凄く得難い経験を惜しげもなく与えてくれますが、卒業までそのようなことが一切ない人もいたりと、同じカリキュラムなのにその密度が雲泥の差だったりします。それが芸術を学ぶという妙な行為の神髄と言ってしまえばおしまいですが、公的な教育機関としてはどうなのか首を傾げてしまいます。

昔の学長が入学式の式辞で、「諸君らのうち宝石はたった一粒です。その一粒を見つけるために君らを集めた。他は石に過ぎません」と言ったのが全てなのかもしれません。その意味では音楽学部より遥かに死屍累々なのですが、創作は個人の行為であることから彼らよりは他人と比べて落ち込んだり、引きずりおろそうという発想にはあまり至らないのが救いでしょうか。もちろん人格破綻者や窃盗魔、犯罪者予備軍もいて、狂気の縁に降りてまで自分の芸術を掴もうと頑張る人がいるのには畏れますが、それはそれで似たような人がいるあたり、個性に憑りつかれて溺れていくもどかしさを感じます。人間関係というよりはその面で精神を病む人が多いです。

アイデンティティというのは自己の深みに降りていくのではなく、他者との強烈な激突によって自覚するものだと私は考えています。しかしそれは藝大だと先述の理由から難しいのではと思うので、バックボーンが全く違う外国人の割合がもっと増えたらなあと思います。他の都内の大学のようにキャンパス内に外国人がいることは普通ではなく、藝大ではまだ珍しい状態なので。総じて言えることは藝大は芸術を語りあえるプラットホームとして最高の環境であるというだけで、最高の教育機関ではないということです。後者にあまり期待しないほうがいいかもしれません。受け身だと本当につまらないことになります。