2017年5月24日 菅木志雄展

友人と六本木のTOMIO KOYAMA GALLERY に行ってきました。菅木志雄の代表格の最新作がずらりも並んでいました。

もの派は1960年代末からの傾向で、木や石といった素材そのままを見せる作品が特徴的です。彼らの一般的な意味で(作らない)姿勢というのが今では欧米でも評価されています。概念性や名詞ではなくものの本質を見ろと誘う知的な挑発が作品から感じられました。

菅さんは今も作品を作り続けているのですが、昔の作品と根本は変わっておらず、ものが剥き出しのままです。それだけにこの一見シンプルなテーマは人を数十年熱中させる奥深さがあるのでしょう。僕も数点欲しいのがありましたが、お値段が…でした笑。ただ彼らの作品を買うというのは作品を買うというよりは、芸術家の思想を購入しているとした方が正しいのかなと思います。

レオパルディ 講演会 2017年5月12日

東大駒場にて近代イタリアの大詩人レオパルディと近代という講演会に参加しました。久しぶりに脳みそをフルに使った気分です。ローマ大のレオパルディ研究の泰斗が来日し、示唆に富んだ話をたくさんしてくださいました。

19世紀初めを生きた詩人だけあって、ヨーロッパで広まっていく(近代)というものへの警戒が随所に見られる点や、知性への不安や限界についての詩作からして、ゲーテファウストと比較して語る手法は鮮やかで分かりやすかったです。

 

レオパルディは頭脳明晰で博覧強記の人間で、古典を愛し古代を賛美しました。その反対に近代を批判します。この世は元からカオスで説明不可能なのに、理性や進歩を信頼してそれらが良い方向へ導いてくれるという思想を否定します。どこまでも人間の理性に懐疑的でした。常に鏡に向かっているようなエゴイズムが近代で、皆個人完結。現実に入り込めないため他者との接点を失っていく。それが倦怠の起源だと語っているのですが、レオパルディの生涯を知ると、完全にその要項に彼自身が当てはまってしまっているのです。孤独で他者との接点を失い、悲観主義に走る生涯ですから(単純にそうとは決めつけられないが)。近代を批判しているのに、その近代の批判理由そのものみたいな人がレオパルディというパラドックスが、なんだか独特でした。

彼が近代を厳しく批判しやたら古代を賛美するので、そんなに古代が優れていたのか?と疑問になったのですが、どうやらレオパルディの考える近代の基準は理性の役割によるものだと捉えていたみたいです。そのため古代ギリシャ時代の中に古代と近代がある(プラトン以降を近代)。古代ローマ時代の中にまた古代と近代がある(キケロ以降が近代)という発想は面白いなと思いました。

その場合の古代古代の理性を重視しない時期を賛美していた、ということで辻褄が合いました。プラトンより前の時代へ、という態度にニーチェにも通じるものがありました。近代というよりは理性を信頼した(近代的)なものに対して警戒していたんだなと感じます。

 

2017年5月7日 快慶展

奈良国立博物館の快慶展を観てきました。鎌倉時代を代表する仏師の快慶、整った造形とすっきりした顔立ちに写実性以上のものを窺え、深い感動を覚えました。全体だけでなく布の金工模様など細部も、ため息が出るほどの精緻さに彩られています。

 快慶は信心深くストイックに仏像を作り続けた仏師です。そして生涯をかけて自分の理想を追求していった求道者でもあります。戦乱の時代に生きる自分の全てを仏に捧げ、大いなるものを追い続ける偉大な中世人のひとりでした。

いわゆる近代、宗教の衰退と理性や平等といった近代的価値観の勃興によって、絶対的なものや崇高で神々しいものへの態度が一変します。そのようなものの追求は廃れていき、元から存在しないとまでされたりもしました。宗教は支配装置の一部であり旧時代のものという考えも生まれてきます。この流れが美術はもちろん社会全体を覆っていきました。別にそれはそれでいいと思いますし、現代の多様性の源とも受けとれます。

しかし快慶のように信仰に生き、阿弥陀といった仏の真の姿を追求し続ける、宗教的情熱から作られた数々の優作を観ると、なぜかは分かりませんが圧倒されます。大いなるものに憧れ、それを追い求めるイカロスみたいな迸る精神が伝わってきて、卑近なことであくせくしている自分の精神の小ささを思い知らされました。

少しでも大いなるものに近づこうとした昔の人の精神に、直で触れ合えたとても良い機会でした。

2017年5月4日 海北友松展

京都国立博物館で開催中の海北友松展に行ってきました。桃山の大絵師として名前は有名ですが、今回が初の大展覧会ということです。初期は狩野派らしく堅牢な絵画でしたが少しずつ画風が離れていき、晩年の傑作で個性が花開いて行った様子が、美しい物語のように楽しく味わえました。特に黒龍の表現の荒々しさが気骨があって、武士の気風が感じられました。

感じたこと
1 人脈の重要さ。海北友松は信長に滅ぼされた浅井家の家来の子供という、危うい立場の絵師でしたが、大名や公家などの人脈を着々と築き上げて、仕事を確立させることに成功。それが晩年の大作を描ける環境を生み出しました。人と人との繋がりの大切さをしみじみと感じました。

2 長生きするというのも画家にとって重要な点になること。絵を描き始めたのが遅かった人物でしたが、自分の画風を確立したのは60代に入ってからです。もし早死にしていたら狩野派周辺の画家としてさらっと過ぎてしまったでしょう。早逝の美学もありますが、一族が抹殺されても長く生きて描き続けるという闘いを紙上で展開した彼の人生に敬服しました。基本画家の人生や受け手の感覚を作品に当てはめてみることはご法度ですが、今回は不可抗力的にそう思わざるをえませんでした。

桃山絵画は個人的な因縁のある分野なので、展覧会のたびに特別な感覚に襲われます。やはり日本美術のひとつの到達点だといえるでしょう。

2017年4月30日 光琳と基一展

根津美術館にて開催中の光琳と基一の展覧会に行ってきました。有名な光琳の燕子花図の隣にその系譜を継いだ基一の夏秋渓流図が置かれ、見比べられる内容でした。

それにしても鈴木基一の絵に使われている顔料の生々しさには驚かされます。川の輪郭は金で縁取られ精緻な趣きを出していました。その深い青色は解説によると舶来品の超高級顔料をふんだんに使ったとあります。けばけばしい下品さに落ちない清雅な佇まい、そして雄大な構図と色彩にただただ立ち尽くすのみです。

スイスの劇作家デュレンマットは、古典的芸術は100万フランによって達成されると言いました。要するに優れた芸術を育むにはそれ相応のお金がいるということです。(現代美術では製作面において、必ずしもそうとはいえないが)基一が青を安い顔料で使っていたら、きっとこの作品は不安定なものになったことでしょう。とことんお金をかけるからこそ到達できる美もあるのだと思いました。もちろんそれとは別に鈴木基一の俊英ぶりも堪能でき、これからもっと彼の評価と名声が高まっていくのかなと確信できます。

庭園ではそろそろ燕子花が咲く季節みたいです。この展覧会は5月いっぱい開かれてますのでこの機会にどうぞ。

2017年4月23日 茶の湯展

東京国立博物館茶の湯展を観に行ってきました。タイトル通り茶の湯に関わるものなら何でもありという感じで、多種多様な優品が集っていてスケールの大きな展覧会となっています。

スタートは南宋時代の巨匠たちの絵がずらりと並んで圧巻です。牧谿はもちろん梁楷や馬麟といった国宝重文が枯淡な趣があり、日本人の美意識に絶大な影響を与えたんだなと感慨に浸りました。

展示は足利将軍家の下での発展から千利休による大成、そして近代までを包み込む構成という長い歴史を扱うわけですが、各コーナーごとに目玉の作品が置かれていてメリハリがありました。展示品販売総じて小さいものが多いですが、じっくりと頭を使う内容となっていました。

感じたこと
1 茶道具の由来に面白いのがありました。基本的に舶来品としては中国の天目茶碗や高麗茶碗などがありますが、今回インド製の水差しや東南アジア製の茶釜といったものに出会えました。かつての幅広い地域との交易を物語る証拠がまさか茶道具の世界でもあるとは!と新鮮な驚きを感じました。

2 日本は絵画などのファインアーツの国というより、工芸とデザインの国なのだなと改めて思いました。明治期になって西洋の基準が入ってきた際、工芸や掛け軸などは美術でないとされましたが、それ以前の日本人にそのような意識はなく、面白い造形や凝った装飾をまさにアーティスティックにこなしていたのだなと伝わってきました。時の有力者が領地よりも欲しがった名碗などのエピソードを知るたびに、昔の日本人の工芸品に対する考え方の偉大さにハッとされます。そして博物館本館の方もほとんど工芸品の展示なのでやはり日本は工芸とデザインの国なんだなと思った次第です。

退屈さと無縁の充実した展覧会となっています。また私がいったときは藝大茶道部の呈茶席が行われていて、風流の華やぎを前に良い精神の保養になりました。

2017年4月22日 BABEL展

東京都美術館で開催中のBABEL展に行ってきました。日本では滅多に見られないネーデルランド地方の彫刻や、鬼才ヒエロニムス・ボスの作品などがてんこ盛り、といった感じです。資料系は少なく絵画作品がとても多いので退屈せずに楽しめる構成でした。

今回感じたこと
1 ネーデルランド地方(今のベルギーとオランダ地域)の絵画の精緻さに驚きました。人が描いたのではなく神が創った作品だとしたいばかりに、極限まで筆の痕跡を消す画家の執念に圧倒されます。宗教画全盛の頃はもちろん、イタリアルネサンスの影響で画題が肖像やギリシャ神話に変わっていっても、彼らの持つ精緻さの追求という基本態度は変わっていなかったように思えます。無名の画家から本展の主役ブリューゲルまで貫く、ネーデルランド地方絵画の真髄を垣間見れました。

2 ボスの作品の模倣版画と、それの影響下にあったブリューゲルの版画が非常に面白かったです。両者の作品に見られる、奇想という言葉だけでは浅く聞こえてしまうほどの濃密な構想には脱帽。七つの大罪や金の戦いといった作品群に見られる、傑出した想像性と寓意を巧みに含ませる思想性は観ていてただただ凄いなと思うばかりでした。目玉のバベルの塔も素晴らしい作品でしたが第一印象が小さい!笑 でしたので、ブリューゲルの版画が特に印象に残りました。

洗練、調和、安定、という私たちが思う西洋美術のかたちとは違う、雑多、怪奇な作品たち。ヨーロッパ美術を流れるもうひとつの系譜に出会えたいい機会となりました。