2017年4月6日 雪村展

非常に良質な展覧会でした。東京藝術大学美術館にて開催中の雪村展です。まず第一に本人の作品が多いということ。東洋西洋問わず展覧会は対象以外の画家の作品をたくさん展示して、言い方は悪いですがスペースを稼ぎます。しかし戦国時代の画家にしては奇跡的なほど作品が現存しており、そしてその優品が一堂に集結した稀有な機会なのです。

雪村の現物の作品を観たことはおそらく初めてでしたが、一気に引き込まれました。水墨画の展覧会は疲れたり眠くなる残念な男ですが最後までとても面白く楽しめました。奇想の系譜の中で出てくるため普通の意味での上手い巨匠ではなく、高い技巧に支えられた上で破調させていくスタイル。クセのある表現が多いです。

 

しかし変なポーズや情景でも不思議と安定感があるのです。それはキャリアの初期で身につけた鋭敏な画力に基づいているのでしょう。そして後期になればなるほど衣服や植物などの墨の線が活力に満ちてのびやかになっていきます。調和と破調という相対する概念が恐ろしく洗練された状態で墨と一体になっている、観るものに驚きを浴びせる密度の高い作品群が並べられていました。謎に満ちた画家の一生に心地よい衝撃を受けられる喜びに出会えました。

2017年4月4日 シャセリオー展

国立西洋美術館で催されているシャセリオー展に行ってきました。まとまった画業を窺える初の展覧会とあって中々面白かったです。アングルら精密な描写と古典的な調和を愛するグループから、ドラクロワらの情念を剥き出しにしたロマン派へと移っていく様子が、絵の進化とともに伝わってきて、青年画家が自分の道を見出していく物語を目の当たりにした気分でした。

シャセリオーという短命で知名度もあまり無い画家故か、彼の時代はどうだったのかを伝えるべくアングルの絵やドラクロワの版画などが並べられ、その時代性が一目で分かるようできています。また彼の影響下にあった画家たち(モローといった一級の芸術家)の絵も展示されています。シャセリオーという人物を多角的に捉えようとする内容となっていました。

圧巻だったのは副題の通り、異国風の作品群でした。彼の絵にアフリカの押しつぶすような光が宿り、美しい調和が生まれていました。ただし37歳の若さで亡くなり画風を確立した、というまさにこれからの段階で逝ってしまいました。そのため有名な巨匠たちのように大成された美意識によって表現された絵、というよりは模索の過程、過去や同時代からの独立のための試行といった趣を感じました。なので絵を観てもどこまでも未完な少し物足りない感覚を覚えるかもしれません。

2017年4月3日 ミュシャ展

絵画の起源は文字が読めない人にもイメージを伝える、つまりは(読む、読ませる)ためのものだと古くから言われてきましたが、この展覧会を観終えた後その意味が分かった気がしました。国立新美術館で開催中のミュシャ展です。

目玉のスラヴ叙事詩はストーリーの大胆な視覚化に高い次元で成功しています。ミュシャ特有の対象の配置や世紀末を超えて獲得した淡い燃えるような色彩を存分に使い、故郷の歴史が躍動的に表されていました。なにしろあまり馴染みのないスラヴ民族の古代から中世の出来事が画題なのに、少し解説文を見ただけで鑑賞者の頭にあたかも自分たちの歴史であるかのように、迫ってくるよう感じられるのです。またその出来事の偉大さや虚しさまでもが人間の表情からこぼれ落ち、遠い異国の物語とは到底思えず、巨人的視点から歴史を俯瞰する感覚に囚われるのです。この点でやはり冒頭のようなことを思い返したわけでした。

戦争画であっても戦闘や血は一切描かず、横たわる遺体をならべて人間の愚かさを静かに指摘するところにミュシャの平和主義的な主張を感じました。所々絵の人物がこちらを凝視しているのでより一層その効果が強まっています。その視線が鑑賞者ではなく当事者なのだと、普遍的なことを述べているようです。

そして何と言っても絵が巨大!それ故迫力が段違いです。かなり距離をとって観なければ全体を捉えられないこの大きさにただただ圧倒されました。大きいということそれ自体が既にとてつもない力を秘めているのかもしれません。さまざまな事を考えるいい機会になったと思います。

あいちトリエンナーレの騒動について

もめにもめた2019年のあいちトリエンナーレ。逆に「表現の不自由展」について以外に関わったアーティストはどのような気持ちなのでしょうか。あいちトリエンナーレ=「表現の不自由展」となってしまいました。マスコミも世論も愛知県美術館のたった一室で行われた展示のみを話題にし、他は無かったことになってしまいました。今も名古屋市が事前の約束を守らず、県にお金を払っていないようで、契約違反に関する訴訟が行われるそうです。津田大介氏や東浩紀氏も今では普通に批評家としての仕事を再開されていますが、愛知県庁には未だに右翼の街宣車が来たり、クレームの電話が来たりと全く終息していません。知識人の撒いたものを尻ぬぐいするのは、行政の仕事なのでしょうか。このようなエリート主義の弊害でリベラルは反感を抱かれ、負け続けるのです。

美術手帖 2020年 04月号 [雑誌]

美術手帖 2020年 04月号 [雑誌]

 

 どのような展示が行われたのかはご存じの方が多いでしょうからここでは書きませんが、一連の混乱は確実に日本の文化史に残る話です。令和を象徴する事件のひとつとして回想されるかもしれません。私自身美術界にいるものですから、基本的な立場はお察しください。ただそれとは別に雑感として記しておきたいことがあります。

 

今回の騒動ですが、まず作品そのものよりは周辺部が炎上したと見るのが正しいでしょう。マスコミや行政が熱狂的に取り上げて滅茶苦茶になりました。しかし彼らの中で実作を観た人間は何人いるのでしょうか。アートは生ものです。その場で接して初めて感じられるものがたくさんあります。

またあらゆる作品には背景や過程があり、それらを念頭に鑑賞することが求められます。目に映ったものが全てではないのです。特に現代アートと呼ばれるものはその態度が肝要になります。しかしろくに文脈を調べずに、また作品自体を見ていないのに、滔々と意見を語る人が余りに多いことに驚きました。擁護派も批判派もどちらも底が浅く、イデオロギーの問題でもあることからか、議論は全くかみ合わないものでした。どちらが正義か否かということよりも、なんというか美術教育の敗北を感じます。

 

また当のアーティスト本人の声や思想はほとんど騒音に掻き消されていました。展示室閉鎖後の、他のアーティストたちの抗議声明など、かなり感動的なものだったのですがそれを大々的に取り上げることはありませんでした。要するにアーティストがいて、彼らが創った作品があって、鑑賞者がいる、という従来の形態は滅び去り、世論や行政、そしてキュレーターの方がアーティスト本人より存在感が強くなっていることを意味しています。アーティストの存在感は薄くなるばかりです。これはとても巨大な転換期なのではないでしょうか。西洋近代が生み出した独立した個人としてのアーティスト像が崩れていく過程に、私たちは身を置いているのではと、このあいちトリエンナーレが教えてくれたように思います。芸術家の死、も近いかもしれません。

藝大おじさんについて

音楽学部名物といえば「藝大おじさん」ですね。彼らの話はよく聞こえてきます。近年はブログ等で控えめにこの方たちの存在を教える方もいらっしゃいますが、実態はえげつなく衝撃的なものがあります。

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クラナッハ『不釣り合いなカップル』(1522年、ブダペスト西洋美術館)

 

例えば

・金をちらつかせてパトロンという名の愛人契約を結ぼうとしてくるおじさん

・コンサートを開いてあげると近寄ってくるが、金銭トラブル等が酷いおじさん

・ただのセクハラおじさん。金持ちは豪華な自宅に呼んで大胆にやります

・自分の吹いたマウスピースをお目当ての娘にあげるなどする変態おじさん

・顔写真はもちろん、全体写真をきわどい角度から撮るおじさん

・上野で待ち伏せをするストーカー系おじさん

・怯えた顔に快感を覚える恐喝系おじさん          etc....

 

いい年したおじさんと若い女性の組み合わせはある意味普遍的な組み合わせなのか分かりません。学生側も相手は一応お客様なのでなかなか無視することはできないようで、非常に根深い問題です。そしてこのようなトラブルを案外学生たちが割り切ってしまっているのも恐ろしいところではあります。「藝大おじさん」の話をしても、あーそんなことあるよね、程度の反応しか来なかったり、一般感覚がやや麻痺しているのではと思ってしまいます。むしろおじさん上手く使ってのし上がってやろうという野心家もいて、なかなかカオスです。しかしおじさんは音楽ではなく、若くてキレイな女性が好きなのであって、彼女が卒業したら想像以上に冷淡な態度をとります。そしてすぐに次の若いターゲットに狙いを定めるのです。

 

音楽学部はだいたい二年生から、定期演奏会等で外部にお披露目されますが、そこでおじさんたちの目に留まると、そのようなことが発生します。美しくて可愛い方だと数名のおじさんがついていたりするのは珍しくありません。無視されて諦めてくれる紳士やひたすら応援に徹してくれる紳士ならいいのですが、藝大おじさんはとてもしつこいことに定評があります。だからこのように認識され、不名誉な単語が作られてしまっているのです。

藝大生についての誤解

2016年の記事になりますが、広く読んでいただきたいものがあります。

www.huffingtonpost.jp

 

藝大生(他の全国の美大生も)どうやら人としてより、珍獣として見られている節があるのでしょうか。東京藝術大学のキャンパスは上野動物園と隣接していますので、自嘲的に「上野動物園人間館」「上野動物園ホモ・サピエンス館」ということはありますけれど、このブログのように一般的な世界の人と違うことはありません。最初から交じり合わないものでは決してないのです。

 

実際問題として万人に分かりやすい「個性」や「狂気」を持った人は、藝大よりも普通の社会の方が圧倒的に多いです。またクリエイター群像系のアニメや映画のように、芸術家の卵たちによる、がむしゃらな葛藤といった熱く激しいものは、そんなにありませんよ。むしろそのようなイメージを抱かれて、それを藝大生に投影しても拍子抜けするだけですし、変な誤解を生むので少々迷惑です。黙々と自らの課題に丁寧に取り組む静けさが実態に近いと思います。確かにそれではアニメや映画にはなりませんね。尺が伸ばせないので。

 

行方不明の件についても、進路調査票に返答しないと誰でも「行方不明者」として大学が認識するだけのことです。これは返答の義務が特にないので当然そのような結果になります。卒業生が次々に失踪というのはロマンティックかもしれませんが、単に大学に進路を提出していないだけです。結構な人は細々と活動を続けていたり、アート系の雑誌に載っていたり色々目に見える活動をしているものですが、彼らも書類を出していなければ「行方不明者」です。巨匠と称されている人の中にもそのように扱われている人はいたりします。ですから内部から見ればこの件に面白味はありません。

 

東京藝大の平熱 美術学部

美術学部音楽学部と違うこととしては、まずそれぞれの科がやっていることが違い過ぎて、美術学部とはこのような感じと軽くまとめることができないところです。学生の雰囲気は大まかに言って音楽学部はお坊ちゃまお嬢様、美術学部は少し治安の悪い感じですが、美術学部でも美術史を専門にする芸術学専攻ですと、本物のお嬢様もいたりします。見るからにアブナイ人からおっとりした人まで様々いて、その点ではとても高度な多様性が保たれていると言えます。ちなみに音楽学部と美術学部は学園祭実行委員会にでも入らない限り、ほとんど交流する機会はありません。教職の体育が交流の場になるとは聞きましたがそれくらいです。
(どうやらこの本、コミックでパート2もでたようですね)

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

  • 作者:二宮 敦人
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
最後の秘境 東京藝大 2: 天才たちのカオスな日常 (BUNCH COMICS)
 

 とはいいつつも本当に個性なるものがあるのかは別問題です。私から見れば藝大生の発想の根底は大体似通っています。もちろん他の大学の学生とは全く違いますが、藝大生とは想像以上に均一性の高い組織なのです。理由は入学までの過程を見れば察しがつくと思われます。
まず藝大の美術学部の実技系に入るという時点で、一般的な就職を考えている人は圧倒的少数派だということはご存じの通りだと思います。稼ぎゼロの社会人になる可能性が相当高いのが特徴なのですが、そのような環境に息子や娘を行かせることができる家庭というのは、経済的余裕があって、かつアートへの関心が並み以上にある家庭に限られてきます。出身地や年齢のばらつきはあるものの、藝大生の養育環境は少なからず似ています。


また入学前には数年間、都心にある美術系予備校に通うことになりますが、そこで致命的なことが起こってしまいます。入試のためのデッサンや芸術論を仕込まれるので、学生の元々持っていた個性が予備校色に染まってしまう場合があるのです。近年油画科や日本画科の現役合格の割合がかつてより上がってきていますが、今の藝大の教授たちには予備校色に染まっていない学生を採用したいという傾向があることは間違いないでしょう。純粋な作家性が命のはずなのですが、それが入試の際にウケがよくなるように修正がはいってしまうのは残念なことです。未だに先端芸術表現科以外にはデッサン試験がありますが、もうヨーロッパやアメリカの美大入試には存在しないので、改革が必要なのではと思っています。

少し逸れましたが、入学する前に体験する環境が多かれ少なかれ皆似通っているので、芸術的な嗜好は人さまざまですが、根本的な価値観はかなり似ていると思います。これは観察しないと分からない微細な問題ですが、稀に分かりやすく顕在化します。毎年二月頃に行われる「卒展」です。かなり内外からの注目を浴びる行事なのでご存じの方も多いかと思いますが、あの展示を初めて見た時はなんて藝大生は個性豊かな人たちなのだろう!と必ず驚くはずです。しかし三回や四回、毎年欠かさず見ていると毎年毎年同じような作品や、同じモティーフ、同じアプローチが散見されることに気が付きます。学生ゆえの未熟さがあるのは仕方ないにせよ、大体のものに既視感を感じ始めてしまうのです。それは藝大生は多様に見えて実はバックボーンが大体同じという仮定を支える重要な要素です。ぜひ「卒展」にいらしてください。

教授も教育者というよりは現役のアーティストだったりするので、授業の体をなしていないケースが多いです。デザインや建築、芸術学など学識の比重が重い科は比較的きちんとしたカリキュラムが組まれていますが、絵画科や彫刻科などファインアート系はかなり怪しいです。講義形式の授業でないという楽しみや価値があるのでそれはそれで素晴らしいのですが、学生と教授という立場が曖昧なのです。ずば抜けた鬼才や教授に気に入られた人は優先的に教えられたり、プライベートで対話し遊んだり、自分の製作に一部関わらせたりと、物凄く得難い経験を惜しげもなく与えてくれますが、卒業までそのようなことが一切ない人もいたりと、同じカリキュラムなのにその密度が雲泥の差だったりします。それが芸術を学ぶという妙な行為の神髄と言ってしまえばおしまいですが、公的な教育機関としてはどうなのか首を傾げてしまいます。

昔の学長が入学式の式辞で、「諸君らのうち宝石はたった一粒です。その一粒を見つけるために君らを集めた。他は石に過ぎません」と言ったのが全てなのかもしれません。その意味では音楽学部より遥かに死屍累々なのですが、創作は個人の行為であることから彼らよりは他人と比べて落ち込んだり、引きずりおろそうという発想にはあまり至らないのが救いでしょうか。もちろん人格破綻者や窃盗魔、犯罪者予備軍もいて、狂気の縁に降りてまで自分の芸術を掴もうと頑張る人がいるのには畏れますが、それはそれで似たような人がいるあたり、個性に憑りつかれて溺れていくもどかしさを感じます。人間関係というよりはその面で精神を病む人が多いです。

アイデンティティというのは自己の深みに降りていくのではなく、他者との強烈な激突によって自覚するものだと私は考えています。しかしそれは藝大だと先述の理由から難しいのではと思うので、バックボーンが全く違う外国人の割合がもっと増えたらなあと思います。他の都内の大学のようにキャンパス内に外国人がいることは普通ではなく、藝大ではまだ珍しい状態なので。総じて言えることは藝大は芸術を語りあえるプラットホームとして最高の環境であるというだけで、最高の教育機関ではないということです。後者にあまり期待しないほうがいいかもしれません。受け身だと本当につまらないことになります。