あいちトリエンナーレの騒動について

もめにもめた2019年のあいちトリエンナーレ。逆に「表現の不自由展」について以外に関わったアーティストはどのような気持ちなのでしょうか。あいちトリエンナーレ=「表現の不自由展」となってしまいました。マスコミも世論も愛知県美術館のたった一室で行われた展示のみを話題にし、他は無かったことになってしまいました。今も名古屋市が事前の約束を守らず、県にお金を払っていないようで、契約違反に関する訴訟が行われるそうです。津田大介氏や東浩紀氏も今では普通に批評家としての仕事を再開されていますが、愛知県庁には未だに右翼の街宣車が来たり、クレームの電話が来たりと全く終息していません。知識人の撒いたものを尻ぬぐいするのは、行政の仕事なのでしょうか。このようなエリート主義の弊害でリベラルは反感を抱かれ、負け続けるのです。

美術手帖 2020年 04月号 [雑誌]

美術手帖 2020年 04月号 [雑誌]

 

 どのような展示が行われたのかはご存じの方が多いでしょうからここでは書きませんが、一連の混乱は確実に日本の文化史に残る話です。令和を象徴する事件のひとつとして回想されるかもしれません。私自身美術界にいるものですから、基本的な立場はお察しください。ただそれとは別に雑感として記しておきたいことがあります。

 

今回の騒動ですが、まず作品そのものよりは周辺部が炎上したと見るのが正しいでしょう。マスコミや行政が熱狂的に取り上げて滅茶苦茶になりました。しかし彼らの中で実作を観た人間は何人いるのでしょうか。アートは生ものです。その場で接して初めて感じられるものがたくさんあります。

またあらゆる作品には背景や過程があり、それらを念頭に鑑賞することが求められます。目に映ったものが全てではないのです。特に現代アートと呼ばれるものはその態度が肝要になります。しかしろくに文脈を調べずに、また作品自体を見ていないのに、滔々と意見を語る人が余りに多いことに驚きました。擁護派も批判派もどちらも底が浅く、イデオロギーの問題でもあることからか、議論は全くかみ合わないものでした。どちらが正義か否かということよりも、なんというか美術教育の敗北を感じます。

 

また当のアーティスト本人の声や思想はほとんど騒音に掻き消されていました。展示室閉鎖後の、他のアーティストたちの抗議声明など、かなり感動的なものだったのですがそれを大々的に取り上げることはありませんでした。要するにアーティストがいて、彼らが創った作品があって、鑑賞者がいる、という従来の形態は滅び去り、世論や行政、そしてキュレーターの方がアーティスト本人より存在感が強くなっていることを意味しています。アーティストの存在感は薄くなるばかりです。これはとても巨大な転換期なのではないでしょうか。西洋近代が生み出した独立した個人としてのアーティスト像が崩れていく過程に、私たちは身を置いているのではと、このあいちトリエンナーレが教えてくれたように思います。芸術家の死、も近いかもしれません。